海と山 そして、歴史の町 下田                



「日本開国の港、下田港」黒船の来航以前から下田は、風待ち港、また避難港として栄えた港町でした。
しかし「開国港」とはその対象が日本の船だけではなく、外国船に対しても港を開く、つまり外国船の入港を認め外国人
と日本人が交流を始めたということです。それまで日本はこの小さな列島の中で、同じ日本人同士で交流をしていました。
「鎖国」いう体制のもとで(長崎は例外)215年間も国際的に孤立していた日本国が、鎖国をやめて国際社会に参加して
外国人とも交流するという新たな決意をもって決めた「開国」だということになります。
 この大変革を決定づけたものが、今から160年ほど前の嘉永7年3月3日(1854年3月31日)に締結された日米和親
条約です。そして、その第2条によって下田と箱館(今の函館)の2港が開かれることとなり下田は即時開港に箱館は翌年
3月の開港とされ、下田は日本で最初の開港場となりました。当時、幕府は日本よりも強力な武力をもつ諸外国を警戒して、
将軍様のおられる江戸のおひざもと、江戸湾の開港には同意できず幕府は江戸から近くもなく、遠くもない下田港を推薦し
ました。海上交通の要所ということで下田奉行が初めて置かれ、不審な廻船の検問をするために須崎の越瀬に「遠見番所」
を設置しその20年後の寛永13(1636)年、番所は大浦に移されました。
増加していく廻船の江戸往復に対して「入り鉄砲」、「出女等」の厳重なチェックため「船改番所」を置きました。
「陸の関所 箱根」に対して「海の関所 下田」と言われました。
 享保6(1721)年、浦賀に御番所が移るまでの100年有余もの長い間、下田奉行所が置かれていました。
当時の下田は出船入船三千艘といわれ、繁栄を誇り、全国でも有数な港町でした。合計1,265人ものアメリカ人を乗せて
下田湾に入港したペリー艦隊7隻が、下田港から去っていった6月2日までの74日の間には、「下田奉行設置」、
「アメリカ人上陸」、「吉田松陰・金子重輔の密航事件」、「ポーハタン等5隻による箱館港への事前調査」や「日米和親
条約附録下田条約調印」そして「欠乏品供給と共にその名目による事実上の貿易開始」等々、行われました。

「泰平のねむりをさます上喜撰(蒸気船)」、ご存じですか?「たった4はい(4隻)で夜も眠れず」この歌は、下田開港
の前年にペリーが軍艦4隻を率いて江戸湾に入ってきたときに作られた歌ですが、その後嘉永7年3月3日に結んだ「日米和
親条約」によって即時開港された下田湾には4隻ではなく7隻の軍艦が入港いたしました。
当時の下田の人々はかなり驚きましたが、恐ろしさと興味をも芽生えさせたのではなかったのでしょうか? 
当時の日本の
帆船「千石船」は最も大きくても100トンほどでしたが、7隻の内で最も総トン数が少なかった「サプライ号」でさえその
5倍以上で、最も重かった「ポーハタン号」はその24倍をも超えていました。それらの船には大砲をも備えられ動く砲台
のでした。(ポーハタンは9門の大砲を備えていました)
 帆船とは、違い当時の最先端の蒸気船(ポーハタン号とミシシッピー号)は、その不気味な黒い色と、3本マストそして
大砲に加えて黒い煙を吐く煙突、左右にある水車のような大きな外輪そしてその大きさには、またまた驚かされました。
 圧倒的な武力と共に、蒸気を人工的に作って、その力を船や機関車等の大きな乗り物にも利用する一歩進んでいた外国の
異文化が日本国にも入港することとなりました。
 嘉永7年(1854)3月24日、日本で最初の開港場となった下田に急きょ下田奉行が復活して伊沢美作守と都筑駿河守が
任命され下田奉行は2人制とされました。  その仕事は治安の維持とペリー提督(アメリカ)との折衝でした。
薪、水、食料、石炭等の欠乏品を供給するのも下田奉行の仕事でした。今は誰でも海外に行くことができますが当時は国外に
出ることは禁止、国法を犯すということで打首となることもありました。
 そんな時代に「吉田松陰」とその弟子「金子重輔」は黒船に乗って海外に行こうとしました。
(密航を企て)嘉永7(1853)年3月18日二人は柿崎で、アメリカ人士官の上着に手紙を差入れるとすぐに立去り、柿崎
の弁天島のほこらで眠り、満潮を待って小船を下田湾に向けこぎだしました。 ミシシッピー号まで漕ぎつくと、「ポーハ
タン号へ行け」と言われまず。松陰が、次いで重輔がポーハタン号に乗船。その際、乗ってきた小舟はアメリカ水兵の棹に
突き放されて流失してしまった。なんとか乗船できた松陰は筆談で、通訳のウイリアムズを通じて「アメリカまで乗船させ
てほしい」とお願いした。松陰等らの手紙には世界を周遊しようという望みと、船内ではどんな仕事でもするから乗せてほ
しいこと、もしも幕府に密航のことが知れると打首となる事等が書かれていました。この事をペリーもウイリアムズも知っ
てはいたが、この大事な時期に日本の国法を無視することも出来ず、ペリーはその志には大いに感動しながらも「幕府から
許可が必要」ということでやむなく乗船を断った。
 そして人目につかないよう、まだ暗いうちに二人を福浦までボートで送らせた。自首した二人は密航を企てたことで下田
番所のとらわれ人となり生涯を終えるまで、獄中と軟禁生活をおくることになりました。

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 その後「日米和親条約附録下田条約」の交渉は始まり(1854年6月20日)ペリー提督と、林大学頭 以下7名の日本全権に
より、下田の了仙寺において条約書が交換された。
 この条約は日米和親条約を受けて、細目13ヶ条から成っており、7里以内の関門出入りの保障や、上陸場所の3ヵ所の設定、
休息所(了仙寺、玉泉寺)、埋葬所(玉泉寺)の設置、所用品売買の取扱い、港内水先案内人の設置等が主とされた。


    
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